結愛ちゃん虐待死裁判の判決が懲役13年・・裁判員裁判はこの時のためだったのではなかったのか?
13年は短すぎないか?
こんにちは。
今日「結愛ちゃん虐待死事件」の判決が下されました。
「懲役13年」
これをあなたがどう思うかは別として、私にとってこの判決は「あまりに軽い」ものでした。
この裁判は「基準」を決める裁判でもあったからです。
残忍で凶悪な手順を踏んだ危険でも家庭内ならこれほど酌量されるのか?
そんな悔しい思いでいっぱいです。
ここではその思いをとにかく語らせていただきたく思います。
検察は18年を求刑
この事件の量刑として検察は18年を求刑していました。
これでも私もそうですが、多くの人たちが「短いよ〜!」と思った事ではないかと思います。
しかし、今回の判決はその求刑からさらに酌量し、なんと3割ほど減刑された13年というもの・・・。
なにしてくれてんの?o(`ω´ )o
と言いたくなる判決です!
情状酌量される余地はあったのか?
父親である船戸雄大被告は当初から「故意」という認識の部分を否認してきました。
まあ、裁判で罪を軽くする為に闘っているのですから当然のことといえば当然のことです。
では、彼の行いに情状が入る余地はあったのでしょうか?
彼の行為は
暴力を繰り返し、
苦しむ娘を目の前にし反省文を書かせ、
自分と家族(実子の)は充分な睡眠をとり充分な食事をし、
結愛ちゃんだけには通常の子供ではありえないほど早朝に起きるように強要し、
食事は満足に与えず同年齢平均体重の2/3ほどになっていた。
さらには、真冬に冷水を裸の状態で浴びせかけ、日によってはそのまま外に放り出していたとさえ言われています。
この行為の数々に彼の理由があったとして、それでも情状酌量の余地があったかと言われると、私には断じてそういうものが入り込む余地はないと思います。
なぜこの行為が酌量されたのか、全く理解ができません!
証拠の立証が難しいのが「家庭内事件」
実は・・と偉そうに言おうとしてますが・・。
この裁判は「裁判員裁判」です。
そして、裁判は「家庭内裁判」です。
私は「この事件こそ裁判員裁判の真骨頂だ!」と思っていました。
なぜなら裁判員制度は制度発足当初の説明では「民衆が参加することで民意に添うことのできる裁判ができる」と謳っていたからです。
この裁判こそ、そう言った民意が反映されるべきもので、今回は私も期待していました。
しかし、発足後の意義の説明の変遷や判例にたまに見え隠れしていた「心配」がここにきて出てしまいました。
心配とは「家庭内事件は証拠の立証が難しい」という事です。
特に故意か過失かという問題の証明は、ただでさえ難しいなかでさらに閉鎖した空間で起きた事で、夫婦間しか証言がない中であれば、その真意を証明することはほぼ不可能と言っても過言ではないでしょう。
互いに話し合わなくとも夫婦が庇い合えば、証言などいくらでも改竄できるのですから・・。
そして、これが引き金となって、もう一つの「心配」が発動します。
「証拠不十分なら裁判官が主導権を握る」
ということです。
裁判員は証拠をみて証拠のある中から量刑を判断しますよね!
しかし、被告の考え方に明確な落ち度があるかどうか分からない場合はどうでしょうか?
裁判員には判断基準がなくなってしまいます。
そうなると最終決断は裁判官の裁量がその分の範囲を覆う事になります。
今回の判決の理由は何も公表されてはいませんが、私個人の印象としては、過去にもあったように今回もそうなのではないかと思えてしまいます。
裁判員は責任を持って判決を下せたのか?
さらに心配するのは「裁判員は責任を持って判決を下しているのか?」という事です。
裁判員をせめている訳ではありませんし、悪いと言っている訳でもありません。
裁判中は非常に残虐な画像や話が続きます。
そして一部で報道されていた被告の涙の謝罪など、通常の生活では目の当たりにすることがないような事が常に眼前に現れます。
そう言った中で、覚悟の薄いまま訪れた裁判員が居たとしたら、正常な判断で裁定を下せたのでしょうか?
被告は後半からは態度を軟化させ間違いを認め、先ほども紹介しましたが「涙の謝罪」まで行い情状酌量を訴えました。
激しい暴行の数々を散々紹介され心が乱れてきた頃に、このような態度を見たとき、もしあなたや私が裁判員だったらどう感じるでしょうか?
そう考えたとき、残虐性に狂いそうな事柄の紹介後の被告の態度の豹変が、もしかすると「反省し始めたのかも・・。」と感じてしまうかもしれません。
そう考えると、被告弁護人にマインドコントロールに近いような世界に連れて行かれたのではないでしょうか・・。
この裁判は虐待死事件の基準になる
・・とはいえ、この裁判はこれからも起きるであろう「虐待死」の判決の基準になる重要な裁判でした。
この残虐性ならこの量刑で・・となる最高刑を推し量る上での重要な裁判だったのです。
今回の結愛ちゃんがされた事は「通常では想像もつかないほどの残虐性」でした。
SNSなんかでは「極刑」や「無期で・・。」などのキーワードが並ぶほど異常な虐待が続いていました。
検察が訴えた懲役18年もSNSでは「短すぎる」との書き込みで溢れたくらいです。
しかし判決はそれよりも5年も短縮した判決となりました。
これから家庭内で虐待死事件が起きた場合、我が子を長期で虐待し最後に「晒し首」で街中に放置でもしない限りは懲役13年以内で済むという事になってしまいます。
いや・・晒し首ですら被告が涙を流して謝罪し、故意を証明できなければ懲役13年なのかもしれません・・。
さいごに
これからは虐待死事件の被告弁護人はこの判例の一点のみに集中して闘うことになるんでしょう。
こんな事があっていいのでしょうか?
裁判所は尊いですが、今回は私は判決に対して大いに疑問を感じます。
人生は今や100年と言われています。
結愛ちゃんは残り95年を生きる権利があったのです。
それをさらに1年以上拘束した挙句に奪った両親・・結愛ちゃんの思いも確認せず押しかけた男が結愛ちゃんの母親で作った実子と区別するために奪った95年の人生・・・。
この身勝手な男がまた13年後には娑婆で人生を謳歌することが許されていいのでしょうか?
裁判所はせめてこの基準となる裁判の判決理由だけは堂々とその経緯を説明する義務があるのではないでしょうか?
そうでなければ両親を最後まで信じて頼って死んでいった5歳の女の子の命がうかばれない・・・。
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