意味不明なコロナ対策・・甲子園問題 – わかぶろぐ

意味不明なコロナ対策・・甲子園問題

わか日記

通称「甲子園」の中止ってなんだったの?

 

こんにちは。

いま高校野球をやってます。

しかも甲子園球場で!

だけど、この高校野球は例年の高校野球の「甲子園」ではありません。

例年のは「選抜高等学校野球野球大会」、対して今回のは「2020甲子園高校野球交流試合」。

今回のは「賞は気にせず楽しみましょう!」というだけのものなんですよね!

これってなんか変じゃないですか?

それについてちょっとだけ触れたいと思います。

 

例年の「甲子園」がなくなった理由

 

毎年やっている「甲子園」が中止になった理由は1つです。

「甲子園でのコロナ感染の危険がある」

これだけです。

例えば・・

<選手が喜びでハグした時は密になる。>

<応援団が叫んだり踊ったりすることが感染につながる。>

<選手などの宿泊が感染につながる。>

などなど・・。

言い出したらキリがないSNSなんかの声に答えたことが原因となってます。

その結果、応援は「新しい生活様式」に則って人数制限や叫ばないなどの「プロ野球の対策基準」に近いことを提案しましたがあまりいい方向には話が進まず、高校野球連盟・・通称「高野連」は6月に「今回の甲子園は中止とする」という決定をした訳です。

 

なぜかマスコミが食いついた!

 

これに即反応したのがマスコミ。

<こんな早い時期になぜ中止を決定する必要があるのか?>

<大人の決定で球児の夢が簡単に奪われていいのか?>

など、多数の批判がマスコミによって拡散していきました。

私の記憶だと先に「甲子園は感染源にはならないのか?」と疑問視して問いかけたのもマスコミだと思うのですが、これには自信はないので薄く触れとくだけにしときます。

連日の報道によって世論は「代替でも何か甲子園で思い出を作る場面を用意してやれ!」という流れに傾きました。

そこで高野連は学校を絞り「交流試合」という公式結果の残らない機会を甲子園で設けることで球児に思い出をプレゼントすることを決定したのです。

まあ、マスコミの思うように動かされた感が強い内容ですね。

 

なぜこの時期に?

 

そうやって決まったのが、今やってる「甲子園での交流試合」。

しかし、こう思いませんか?

「なぜこの時期に?」

選抜大会を中止にしたのは5月や6月の時点では「多少の収まりは見えているが他国の状況だと感染が再拡大している可能性が濃厚」という見解による裁定でした。

その判断の時期はまさしく今!

この8月中旬のお盆の時期です。

地方大会を一部でも自重しているなら解りますが、その地方交流もバッチリやってしまってます。

当初のSNSの代替提案なんかは「時期を遅らせてでも・・」という声であったと記憶しています。

わざわざ時期を一緒にして感染の危険度を「甲子園」に合わせる必要はあったのでしょうか?

 

これなら「甲子園」をしてあげたほうがよかったんじゃない?

 

結局、地方から遠征して宿泊する学校があって互いに各々の対策で試合に臨んで、感染の危険の中で試合をする。

まあ、試合数こそ勝ち進めば地区予選1回戦負けとでは10倍ほど変わりますが、それも電車登校などの通学と対策さえしっかりできていれば、さほど違いはないでしょう・・。

本来の地区予選の頃は、それほど感染の広がりがない時期だったことを考えると・・。

私としては「どうせ8月に交流戦するくらいなら普通に甲子園やってあげてても良かったんじゃない?」と思ってしまいます。

観客は入場制限してれば良いし、検査も事情によってクラスター懸念があるなら検査も可能な時期だったし、今はもっとはっきりとした対策が立てれるようになってますし、何より監督などの引率する人がコロナ対策の認定なり資格を与えられる権限を持って対策すれば良かっただけではないかと思うのです。

当初は「スポーツはおろか文化分野も部活は自粛すべし・・」という考えがあった中で、甲子園だけは時期を合わせて場所も指定した状態での決定でした。

ここまでやっておいて今こうして球児が競技できてるなら「普通に甲子園」という状況と変化は見られません。

観客を制限して賞に関係ない試合のなかで感染危険度はさほど変わらない状況で普通の野球のプレーを許すのなら、甲子園を開催しても同様の状況ではなかったのではないでしょうか?

甲子園を交流試合にした意味はあったのでしょうか?

 

最後に

 

今回の甲子園を協議した方々もSNSで呟く大人と言われる方々もテレビでコメントする方々も誰も彼もが「自分の意見に都合の良い情報」のみを引っ張り出してきて自己主張するケースが目立っています。

そして大多数が少数を覆い隠して重要なことが隠されてしまっていることもしばしば・・。

初めて起きることにエビデンス(根拠)や統計はあまり意味を為しません。

個々の行動の中にいかに感染の可能性を下げる行為を重ねることができるかの積み重ねが大切だと思います。

<これは意味無いという情報があるから意味無い>

<この人の意見と自分は合ってるから、あの人は間違ってる!>

とかの批判ではなく、何かの情報が出て、それが感染を抑える可能性が1%でもあればそれを実践して重ねていくことができるなら甲子園を開催しても問題はないのでは無いでしょうか?

今回のケースは特に甲子園開催の場合の提案どおりの対策で時期も一緒でありながら代替にした事は不思議でなりません。

私は甲子園は中立派ですが、今回の交流だけはいまだに意味がさっぱりわかりません・・・。

 

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