教師と生徒の立場が逆転。教師の立場とは?
こんにちは!
このところ教師が生徒の頭髪を丸刈りにして、それを抗議した教師を含む被害者サイドが懲戒解雇を盛り込んだ嘆願書を教育委員会に提出したという内容の報道がなされています。
私はこの事や以前の「教師をはめて炎上を狙う」などの報道をみて、正直教師がかわいそうだという感情を持ちます。
それと同時に教師の意地汚さや教育現場がいかに生徒に「汚い手法」を教育しているのかという事も感じてしまうのです・・・。
私はこれらの報道をみて様々な情報を見ていくうちに・・・
これって教師の立場があまりに地に落ちすぎたから起こってる問題じゃないの?
と思ってしまいます。
教師の立場とは?
先に申しましたように、教師の立場とは本来どういった感じが良いのでしょうか?
こんな私も小・中・高と学校に通っていました。
皆勤賞とは言わないまでも、部活もしながら各5日以内の欠席で学校生活を過ごしました。
その程度の経験と持論になりますが、少しだけ考えてみようと思います。
昔が良いとは言わないが・・・
「昔が良かった」とか「自分たちの時代は良かった」とは言いません!
実際、私たちの時代も私たちの親の時代も教師に手を上げ、校舎に火を点けたり、窓ガラスを叩き割って回ったりという行為が当たり前のようにありましたから・・・。
しかしながら、そういった行為があった場合、その生徒にはそれ相応の措置がとられ、生徒もそれを覚悟した上で行動していました。
おかしな事を言うなら、こうした生徒も「責任を持って」行動していたのです。
それに対して教師は体罰や説教、および校則処罰を持って厳正に対処してきました。
少なくとも私が通った学校では、生徒は教師に対して恨みを向けるのではなく、学校の校則に対しての不満を教師を攻撃する事でその向こうのモノに対して抗議していました。
お互いが真っ向から堂々と自分を・・お互いを・・一人の人間として尊重しながらぶつかっていたのです。
「訴訟大国」になりつつある現代社会
社会が成熟していくと、社会全体が「訴訟大国化していく」というデータがあります。
社会が成熟すると、「暴力の排除」「差別的発言の粛清」「差別の排除」などが公的に禁止される傾向になり「人の心のはけ口」が狭められて行くことから、「正当化を訴訟で証明」しようとの動きに集約されていくのがその要因となるとのこと・・・。
例えば「行列のできる法律相談所」など法的抜け道を解説するテレビ番組が視聴率を維持するのにはそういった背景が関係しているのではないでしょうか?
この日本もバブル時代が終わって約30年。
成熟期が長く続いた事で、確実にそういったアメリカのような「訴訟大国」としての流れが進んできているのでしょう。
「法的な事」を教育に持ち込んだ事で心が劣化している
訴訟大国化する中で人の心は単純化し、「必ず答えは一つ」という流れが多分を占めるようになってきました。
例えば「行動の統一化」や「思考の統一化」など、全員が一つの水準で一致する事を社会が望むようになった事で、「やってはいけない事」がより幅広く明確化され、それと同時に人の心の自由を権力者(親)が奪う形をとるようになったのです。
現在、家庭で企業のしきたりを強要する親が増えています。
ようは、職場と家庭を混同する人物が増えているのです。
そういった家庭から育った子供が教師になる事で、企業が大切にしISOが主に語る「法令の遵守」を教育の場で語り、さらにその行動を生徒の前で示す機会が増えました。
その時点で教師と生徒の間柄は心の通わない「法的な関係」でしかなくなり、同じように育った生徒の親たちは立場の悪くなりそうな自分の子供を「法的に優位な立場」にするために教育現場を「我が子が過ごしやすくする」よう訴訟を質にして脅迫しようと試みます。
公共機関(国立学校)は基本的には「国民とは少々の事では争わない」という姿勢を持っているのですから、脅されようと反抗的な態度を取ることはありません。
それを良いことに親は「確実に勝てる」と勘違いし、子供の前で「格好良かった」と気を良くした結果、さらに教育現場を「ただの楽しいコミュニティ」に変えようとして脅しを繰り返し、教育現場を劣化させていっているのではないでしょうか?
自由で叱られない生活が生徒の人間性を壊す
親が子供のためと「学校をコミュニティだけの場」に変えてしまった結果、生徒の心は劣化していきました。
例えば・・・
- 生徒が何をしても暴力は(叩いても)ダメ!
- 生徒が萎縮する言動(大声や罵声)はダメ!
- 生徒が嫌な思いをする言葉は全て誹謗中傷。
挙げていけばキリがありませんが、上に挙げた項目だけでも教師は「叱る」という行為がいかに難しいことなのかを伺わせてくれます。
教育評論家の「尾木ママ」こと尾木直樹氏は「言い聞かせれば生徒は分かってくれる」とよく言いますが・・・。
例えば、叱られることなく放置されて育ってきた高校生に対して、自由気ままに「良いことも悪いことも」関係なく行動に移す事を正すために「それはやっちゃダメだよ!」と優しく言う以外にどんな言葉の選択肢があるのでしょう・・・?
「生徒が気分を害した」というこの時点で「暴言」「暴力」という言葉が生徒とその両親の口から出てくるのです。
あらかじめ印象の良い教師なら優しい言葉でもイケるのでしょうが、最初からナメられた教師はその後は「地獄」しかないように思えます。
生徒の自由を両親が守り、教師が叱る権限のない時点で、生徒の心と人間性は破壊されていっているのではないでしょうか?
それらの積み重ねがお互いを憎しむ結果になっているように思えて仕方がありません。
教師のあるべき立場とは・・・
現代の風潮は「裏表の激しい人物ほど素晴らしい人物である」との考えが蔓延しています。
犯罪報道でよく言われる「あの人がそんな事するとは・・」というのがそれこそ風潮を表しているのではないでしょうか?
普段は「良い子」で裏の行動はバレなければどうでも良いのです。
一昔前までは不良は堂々と悪い事をしてきましたし、突然悪い事を始める人は突然悪そうな格好に変わりました。
それは一度突然不良になった友人に聞いたことがあるんですが・・・。
という事でした。
とするなら、現在裏で悪事を働く生徒たちは、「その悪事を悪事と思っていない」ということになります。
教師は勉強を教えるとともに、暗に「生徒の人物像」を育てることも課せられてしまっているのが現状です。
違う!と思う人もいるでしょうが、子供が不良になれば「学校の教え方が悪い!」、成績が落ちれば「教師の教え方が悪い!」とクレームが入っていることは疑うまでもない事実ですから・・・。
そういった事を考えた場合、教師のあるべき立場とは一体どういった形になるのでしょうか?
私が思うのは、「一定の体罰の許された揺るがない学校の方針に沿った教師」なのではないかと思います。
間違ったことはしっかりと間違いだと叱り、両親が子供の気分が害されたと言ってくれば毅然と「お子さんが悪い!」と対処し、おかしな脅迫がくれば子供の退学も辞さないなど、一定の線引きのできている立場の教師が「教師・先生」であるべきではないかと考えます。
教師も人間です。
追い込めば人格が壊れていきますし、その壊れた人格で生徒を教育しても、今度はその生徒の人格が壊れていきます。
世間と当事者両親は教師の心を守りながら、我が子の全てを優先して即行動せず見守って行くことも必要ではないでしょうか?
教師の心と人格に余裕ができれば、きっと生徒もおおらかに常識を持って育っていくのだと私は思います。
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