【日記】生徒が先生を攻撃する動画が報道されれば今度は先生が一方的に暴力を振るう動画が・・。おかしくなる教育現場。
先生も悪ければ生徒も悪い!そこに線引きをしなければ・・・。
まずは私の嬉しいニュースを申し上げます。
大坂なおみさん!おめでとうございます!
四大大会優勝もすごいですが、何と言っても「世界ランク1位」というのが凄い!
これからも大きな怪我がなく、様々なことを吸収していって欲しいと思います。
・・・ということで、明るい話はここまでにしておきます。
先だってSNSで炎上した「教師を追い込む生徒の炎上狙いの動画」でしたが、先日から流れているのは今度はバランスを取るかのように「教師の暴力動画」です。
私の印象としては、このどちらも教育者側の問題では無いかと思います。
私はこの分野はあまり詳しくは無いので、おそらく見当違いのことになるでしょうが・・・。
ちょっとだけ私の想いを語らせてください!
先生の多くは病んでいる!
私が思うに全国各地の先生はたいがいが病んでいます。
管理する側も管理される側も関係ありません!
教師と呼ばれる人はたいがいが病んでいるのです・・・。
毎日残業で広い分野に対応しながら、生徒の親にいびられ、挙句に「殴られない」と高を括った生徒からはバカにされ・・・。
そんな毎日が土日祝日も関係なく続くのです。
よく、いじめられている子供を先生に「なんとかして!」と言うけれど、私からみるとそんな保護者の言葉が今度は先生をいじめている事になっているように思えます。
そうやって蓄積した鬱憤を先生はどこに吐き出せばいいのでしょう・・・?
先生は全体的に「心の呼吸」が乱れたままになっているのでは無いでしょうか?
「怒られないんだ!」
よくテレビでも教育評論家が口にします。
「暴力は何があってもダメです!」
「生徒の心に一生残るのですから!」
では、皆さんにお聞きします。
怒鳴られても殴られないと始めからわかっている人に怒鳴られて、「怒られてる!」と思えるでしょうか?
私も若い間はいろいろな事で怒られました。
でも、「これ以上やったら引っ叩かれる!」と言うことが物事の境であると学んだ部分があることを否定しません。
私が現代の生徒の立場であったなら、おそらくふざけていて犯罪まがいの事をしたとしても、
「お前!そんなことすんな!もっときつい言葉を使うぞ!」
としか言われないなら、
「はあ?でも言われるだけでしょ?」
と考えたと思います。
その後無視しても反抗しても言葉だけでしか言われないと高を括ってしまったなら、ただの「邪魔な人」としか見なかったのだと考えます。
人はある程度の恐怖というストレスがなければ「反省」という思考は成長しないのでは無いかと思うのです。
言葉の恐怖をやり過ごす事に慣れてしまった子供達が、いつしか「怒られないんだ!」と言葉を聞き流す事になってしまったなら、何をもって子供達の「善悪の境界線」を延長させることができるのでしょうか?
暴力とは言わないが「体罰」に資格制度を!
血を流されて骨折して・・・。
そんなものは私も絶対反対だし、
「1時間も2時間も立たされて殴られて・・・。」
とか言う内容ならば私も即座に怒鳴り込んで行くでしょう!
しかしながら、私も昔はよくやられましたが・・。
「お前はなんでこんな事をした?理由を言え!」
「ほおお・・・。そりゃ世に出たら犯罪やぞ!わかっとるんか?」
そう言って、修学旅行で行った広島の宮島で自分で購入した5000円の大しゃもじで尻を思いっきり叩かれたものです。
先生は結局自分の素手で殴ったりビンタしたりはしませんでした。
そして通知表にこんな事が書いてありました。
「ご子息は◯度、校則違反に近い行為をしました。その為に私が大しゃもじで◯度にわたり大切なご子息の尻を引っ叩きました。私の気持ちが隠すことは許しませんのでこの場を持ってご報告させていただきます。お怒りでありますならば私は信念を持って謝罪させていただきますが、将来のご子息の幸福のためとご理解頂けますと幸いです。 担当教師〇〇」
この先生に引っ叩かれても反省はすれど、この先生に怒りや恨みを抱くことはありませんでした。
怒られている最中には常に「お前の将来」と言う事を訴えてきたからです!
想いがあればそれは耐えられる体罰として捉えられ、想いがなければ生徒の痛みを考えずにやり過ぎるから生徒にトラウマが植えつけられ、暴力となるのでは無いでしょうか?
先生が自分の水筒のお茶を汲んで、後から「ごめんな!」と渡されて飲むお茶の味は今も忘れることはありません・・・。
私は思うのです。
言葉でしか教えることができない世界なら、教育界は言葉の上手いカウンセラーや占い師に全てを委ねればいい!
それができずに居るのなら、教師の心を守るために「資格制」でも「認定制」でも教師にも体罰を許すべきであると考えます。
今の生徒と先生の立場は、私が生徒を前に出したように完全に生徒主導になっています。
これが健全な道徳へと導くカタチなのでしょうか?
私にはどう考えても健全とは思えないのです。
善悪は明確な線引きを・・PTAだけに固執しては「わがまま」が増えるだけ!
大事なお子さんを・・・。
うちの子はお金を払ってそこに行ってあげてる!
この言葉のニュアンスの違いが今回の2つの問題の根底にもあるような気がします。
学校はとかく生徒数に固執し、PTAと言うか親御さんはそれを質に主張を通そうとする・・・。
生徒数に固執すれば「優秀校であるための重圧」がより教師の心を狭くして固定観念をうみ、PTAはそれに追い打ちをかけ「親が望む良い子の姿」を強要する。
生徒の心が歪み始めても「私が育てた子はそんな事はしない!」と学校に迫り、学校はそれが広まり「評判を落とす」とPTAに平謝りで謝罪する。
しかし、それが続けば担任教師は堪ったものでは無い!
「全てのわがまま」を総合してSSランクに持っていかなければならないのだから・・・。
PTAと学校は今の経営とわがままの曖昧な境界線ではなく、善と悪の明確な境界線を教師・生徒・PTAの間に設けなければならないのでは無いでしょうか?
今のままでは全てが共倒れになる事は明白ではないでしょうか?
結局・・・社会も家族も歪んだ生徒が排出されれば将来苦しむ事は必然なのです。
多感な時期だからこそ我々の姿を以って、善悪の境界線を理解させる必要があるのでは無いでしょうか?
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