どうなってる?犯人が無期懲役で万歳三唱・・今の裁判について考えてみる
裁判と制度について考える
判決に万歳三唱で喜んだ殺人犯
先の新幹線内斬りつけ殺人事件。
この事件の判決が先日出ましたが、その結末は非常に異様な光景となりました。
犯人が判決に対して直後に静止を振り切り「万歳三唱」を行ったのです。
この行為は率直に言えば弁護士の求刑ではなく、検察の求刑でもない、犯人の希望の刑に収まった事を示しています。
裁判所は、裁判官は殺人犯の希望の求刑に応えたのです。
被告として裁判で一貫して主張したのは「過去の裁判例からしても3人殺さなければ死刑にはできない。自分は無期懲役になる。」といった内容でした。
さらに言うと「3人殺さないように気をつけながら、とりあえず目標の1人は殺せた。」とも主張していました。
『1人殺したくらいで死刑にできるものならしてみろよ!』
穿った見方をすれば裁判官に対して、こういった挑発をしてきていたわけです。
にも関わらず、裁判所は慣例通りに反省もしていないどころか殺人をした自分を称える犯人に対して希望通りの「無期懲役」を言い渡しました。
これが「刑罰」いや・・「罰」と呼べるものなのでしょうか?
例えば、我が子に誕生プレゼントをあげても万歳三唱するほどは喜びません・・・。
裁判所は殺人犯に対して「誕生プレゼント以上のプレゼントを贈った」という事になったのではないでしょうか?
まあ、この行為が犯人の虚勢だという一部の声も可能性として考えられますが、あの場所・あのタイミングを考える限り、犯人の喜びは本物なのではないかと考えられます。
そして、主張(希望?)どおり最低20〜30年は食事と住居の保証された生活を送る事になるのです。
次々に覆る裁判員による1審判決
先の殺人犯へのプレゼントも異様さはありますが、それについては「判例(通例)」というものと「人権の尊重」を加味すると致し方ないという事は理解できます。
しかし、ここでの事は裁判の異様さの度が違っています。
この度、その最たる判例が一番異様な形で出されましたので、こちらを紹介しながら考えていきたいと思います。
紹介するのは「熊谷6人殺害事件」。
「熊谷6人殺害事件」とは
熊谷市内で女児も含む計6人を3日間の間に殺害し、金品を奪ったという事件。
壁にアルファベットのような文字を殺害した犠牲者の血で書き残したり、逃亡のために犠牲者宅の服に着替えたり、殺害後にその家で飲食をした形跡があるなど、数々の異常な行動が疑われた。
犯行前日にも不審者質問を受けるなど、心の異常が疑われ、裁判では犯人の責任能力について焦点が絞られていた。
裁判員裁判制度にて初の大量殺人を扱う事になった。
精神鑑定では「鑑定留置の結果、当時被疑者は責任能力はあった」と鑑定。
これを参照し裁判員裁判では死刑と判決。
その後、被疑者側の控訴棄却を挟み、2019年6月に東京高裁で控訴審初公判が開かれる。
8月、9月にも公判が行われ、12月に判決。
「精神喪失とまでは言えないが、完全な責任能力を求めた1審判決は適切ではない」(心神耗弱)
として、死刑判決を否定し無期懲役を言い渡す。
犯人はペルー人。
不気味な控訴審
以上のような難しい裁判でしたが、この高裁での控訴審の経緯に不思議な動きがいくつも専門家やジャーナリストから指摘されています。
検察側の精神鑑定師の出廷拒否
控訴審では弁護士側の要請する精神鑑定師は出廷しその鑑定結果を説明しました。
普通に考えれば裁判とは両天秤の間で事象を判断し結論を導くもので、両者に主張できる材料があるなら両者の話を聞くべきです。
先ほどの事件の説明に明記した通り、1審判決は検察側の精神鑑定を加味して出された結論です。
しかしながら、控訴審では検察側の精神鑑定師の出廷は裁判所の判断によって拒否されました。
被疑者の声のみを聞いた形での死刑否定となったのです。
控訴審では少女への行為に触れなかった
犯人は犯行時に2人の少女を殺害していますが、この少女の1人にはここでは描けないような酷い仕打ちを殺害する前に行っていた事が1審で明らかになっています。
そこでの犯行時には非常に冷静な判断でしか行えないような行動(証拠隠滅など)がいくつか見つかっています。
それ以前の犯行では支離滅裂は行動が多かった犯人が次の犯行ではそういった行為を行なっているにも関わらず、高裁の控訴審ではその部分が省かれて審議されていると言われているのです。
悪く言えば「無期懲役にするために邪魔な情報を徹底的に省いて審議された」と言われても仕方がない審議で無期懲役が決まったのです。
裁判員裁判を無くしたい高裁裁判官
もうこれで6度目です・・・。
この数字は裁判員裁判の判決が高裁によって減刑された回数です。
国が裁判員裁判を決定した時、裁判官は一致団結して反対運動を起こしていました。
しかしながら、国は「一般国民の健全な常識を裁判に反映させるため」と現在の裁判制度に持ち込んだのです。
当然、高裁裁判官はもともと反対の立場であり、実施当初は1審でも裁判員と裁判官で量刑判決が真っ二つに別れるほど対立していたくらいですから、プロの誇りとして「一般人に何がわかる?」と反発したくなる人もいるかもしれません。
こんな事は言いたくありませんが、ここで考えた判例と判決を考えていると、こういったプライドが関係した結末ではないかと思えてきます。
もしこういった判例が続くようなら「裁判員裁判は必要ないのではないか」と思ってしまいます。
裁判員は裁判官のように職務として給料をもらい生々しい残酷な犯行現場を見て判断しているのではないのです。
心身に負担をかけ国の命令で出廷しトラウマを抱えながら、下手するとその後の仕事に支障をきたし、我々の代表としてその場に立っていただいているのです。
尊重するべき我々の代表の判断が裁判官のプライドによって大量殺人犯すら減刑してしまうのなら、そんな制度など必要はない。
控訴審で判決が覆るのなら、裁判官は包み隠すこなくその判決経緯を全て国民に明らかにし、1審以上の広範囲な情報収集と細かな尋問と公平な出廷許可をしてもらいたいものである。
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。