川崎で大量切りつけ事件が!・・最後に自分を切るなら最初からそうしろ!
おはようございます。
先ほど、とても傷ましい事件が報じられました。
川崎市登戸で無差別に大人数を切りつける事件発生したとのこと・・・。
報道が錯綜していて、現在は報道陣も混乱しているようで、局によって情報の違いがありますが、これについて触れたいと思います。
最後に自分を切るなら最初から自分だけを切れ!
では、経緯から私の思うことまでを順に進めていきたいと思います。
事件の経緯
5/28朝に川崎市内のスクールバスを待つ小学生の集団に向かい切りつける事件が起きました。
かなりの時間を追い回したようで、各局報道陣の落ち着かない様子を見ていても、事件の凄惨さを十分に感じ取る事ができます。
現在情報が出ている範囲での事は以下の通り。
- 犯行を行ったのは40代〜50代の男。
- 負傷者は現在のところ16人で、うち心肺停止状態のかたが3人(男性2人・女性1人)。
- 負傷者16人中14人が女性で、うち2〜3人が小学生。
- 犯人は事件後に自ら首を切りつけたが、存命のまま身柄を確保。
- 犯人は刺身包丁を両手に持って追い回して切りつけたもよう。
- 犯人は小学生がスクールバスに乗っているときに一緒に乗ってきて追い回して切りつけたとのこと。
- 心肺停止状態の負傷者の1人は犯人。
以上のような情報が出ていて、その内容から・・・
事件は自暴自棄になった犯人が自分より弱い小学生を狙い「道連れ」を欲した犯行ではないか?
という見方をしているようです。
私が思うこと
さて、経緯は以上のところまでで勘弁していただいて、まずは負傷した方々の回復と心肺停止状態にある方々が無事にもどれる事を祈りまして、話を進めさせていただきます。
ここからは「私の思うこと」を書き綴っていきたいと思います。
なぜ無差別犯行を犯す人は「道連れ」を求めるの?
過去にも同様の事件は、私たちの記憶にも鮮明な範囲で以下のような事件があります。
- 秋葉原無差別殺傷事件
- 相模原市障害者施設殺傷事件
この事件の相模原市の事件は「自己本位な恨みと差別的思想」であり、殺傷目的も「障害者」と特定されていて「道連れ」という概念は薄かった・・というか、犯人は生きたいと考えていたと言われていますが・・・。
秋葉原の事件については本人が供述で「標的は誰でもよかった」とか「自分だけが死んで他の人が生きているのは不公平」などと話した事から「道連れ」を欲したのだとされています。
今回の事件も、「無差別とは言えないまでも・・。」という前置きは必要ですが、ほぼ同様の内容のように思えます。
まあ、もっと酷似した内容を探すなら、これも最近起きた事件である「新幹線車内切りつけ事件」の方が心理的にも自分より弱い存在を狙った事からより近いように感じます。
自分より弱い存在を狙う心理状態
いろいろとこういう事件が起きるたびに思うのですが、その中でも自分より弱いものを「道連れ」にする心理状態とはどういった感じなのでしょう・・・。
簡単に考えると・・・。
確実に命を奪える存在を狙う!
ということになりますが・・・。
実際はそんな単純な事で大量に切りつける事が可能なのでしょうか?
途中からは興奮によって自我を失っているから歯止めが聞かなくなっているのでしょうが、それ以前はどうなのでしょう・・・?
行動に移った時点から自我というものは存在していないのでしょうか?
結局、どう考えても「わからない」という言葉に行き着いてしまいます。
それこそが、「私はまだ正常は精神状態である」ということになるのでしょうが・・・。
犯行後に自分を切るなら他人を巻き込むな!
犯人は16人を追い回して切りつけた後に、自ら自身の首を切って自殺を図ったということです。
自分で切りつけるという行為は簡単な気持ちではできませんよね!
他人を切りつけることもそうですが・・・。
自分を切りつけて終わりにするなら、「もうどうでもいい!」と思った時点で、他人を道連れにする事など考えずに、「どうでもいい!」と思った時点で自分を切りつけろ!と思います。
犯人は「道連れ」を考えた時点で、それまで非常に世の中に甘えて生きてきたのだと思います。
なぜなら、必死に自分を律して生きてきて希望を失う人は、常に自己完結のみでこの世を去るのですから・・・。
他人を傷つけて、騒ぎを起こして、自分の存在を認識させようとして・・・。
そんな事で他人の希望を突然奪い、自分だけが「有終の美」を享受しようなどというのは「甘えん坊」以外の何者でもない!
先ほどの「心理状態」に共通する部分がここに関係するように感じますが、「馬鹿者」であることには変わりはありません。
犯人の命は絶対に助けろ!
犯人は現在心肺停止状態にあると言います。
私は・・・
犯人の命と意識だけは何としても回復させろ!
と思います。
こういう人間は、絶対に自分の意思で死なせてはならない!
「よく事件の真相を・・・。」
なんて言葉で犯人の命を心配するコメントが聞かれますが・・・。
そんなものではない!
犯人には意識を取り戻させ「自分の意思では死ねなかった」という事実を突きつけ、「いつ訪れるかわからない死の執行の恐怖」を十分に感じさせ、「後悔と自戒」を自問自答させなければならない。
襲われた小学生はこれから世間に対しての不信を少なからず引きずりながら生きていくことになるでしょう・・・。
それ以外の襲われた方々も一生突然の不可避の恐怖を恐れて生きていくことになります。
カウンセリングも万能ではありませんから、完治というものは期待できないでしょう。
犯人だけを「満足」させて逝かせてしまっては、その方々はこれから先には何も報われるものがなくなってしまいます。
何としても犯人の命と意識だけはしっかりと回復させなければならない!
さいごに
さいごになりますが、よく「世間の情勢が犯罪を助長している」という事が言われ、「犯罪も被害者の一面がある」と酌量する言葉が贈られることがあります。
私はそうはどうしても思えません!
世間では「ルールが間違っているから・・」と自ら身を以てルール違反を犯し、「こうしないと問題提起されない!」と正当化することがよくあります。
私は今回の事件も、以上のような行為をする人達も、極論に到るまでもなく同類なのではないかと思うのです。
ルールや境遇も法治国家ならその枠内で妥協しながら生きていかなければならない。
「これはおかしい!」と思うなら、それを変えるために「変えられる環境である場所」に飛び込むべきなのであると考えます。
それが政治家なら政治家を目指せばいいし、それが社長なら社長になるように努力することが必要ではないでしょうか?
「もうどうでもいい!」と開き直ってルールを違反した時点で、「殺人者」も「運動家」も変わりはないのです。
短絡的な考えが推奨される世の中・・・。
しかし、根気よく熟慮する一面も世の中には重要なのだと、こういった事件が教えてくれているように私には思えて仕方がありません・・・。
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